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中外製薬がシンガポール初となるグローバル承認薬を開発——日本からシンガポール、そして世界へ

中外製薬がシンガポール初となるグローバル承認薬を開発——日本からシンガポール、そして世界へ

中外製薬が初めてシンガポールに設立した創薬拠点であるChugai Pharmabody Research(CPR)が、グローバル承認薬を誕生させた。国として初めてのその快挙はどのようにして成し遂げられたのか。日本とシンガポールの研究所の連携、シンガポールのエコシステムの利点、そして今後の展望について、中外製薬の執行役員であり研究本部長を務める井川智之氏に話を聞いた。


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シンガポール初のグローバル承認薬が誕生 

バイオ創薬を牽引する中外製薬がシンガポールで開発した医薬品が​​2024年2月に中国で、3月に日本で、6月にアメリカで、8月に欧州で承認され、国際的に使用されるようになった。 

その医薬品は血液の希少疾患に対する治療薬だ。赤血球が破壊される「発作性夜間ヘモグロビン尿症」の治療において、既存薬では点滴が必要だったのに対し、新薬では皮下注射で患者自身による投与が可能となることで、患者の負担軽減が期待されている。さらに他の疾患への治験も進行中で、将来的には​​10億スイスフラン(約1,700億円)を超える売り上げが見込まれている。  

開発当初からプロジェクトに関わってきた井川氏は、この成果の重要性について語る。「シンガポールで新薬がグローバル承認を得たのは、その​希少疾患治療薬​が初めてです。新しい薬が市場に出るまでのプロセスは複雑で長期間にわたるため、医薬品の開発が成功する確率は極めて低いです。そのなかで、シンガポールで開発した薬が世界中に届けられるという事実は、大きな成果と言えるでしょう」  
 

執行役員 研究本部長 井川智之氏

執行役員 研究本部長 井川智之氏

シンガポールの多様な人材を生かした研究 

そうして社内外から大きな注目を集める​希少疾患治療薬​の開発は2012年、シンガポールに中外製薬の研究拠点Chugai Pharmabody Research(​​CPR)が立ち上がると同時に、CPR初のプロジェクトとしてスタートした。 
「中外の日本の研究所で、創薬に関するある革新的な技術が見つかりました。その技術を活用して実際に薬を開発するにあたり、日本ですべての研究を行うと、次世代技術の開発に支障をきたす懸念がありました。そこで、シンガポールに研究所を新設し、創薬はシンガポール、日本は技術開発を担当するという役割分担を行うことになりました」(井川氏) 

 中外製薬の研究所は、それまで日本国内に2カ所あった。そこに新たに加わる海外創薬研究拠点として選んだのがシンガポールだった。 

シンガポールでの医薬品の開発プロジェクトは、日本で発見された技術をシンガポールに移管し、主な実験はシンガポールで実施しつつ、日本でしか行えない実験は日本でという形で、両研究所が密に連携しながら進められた。その結果、約3年で新薬が完成した。 

井川氏は、CPR設立当初は日本の研究所の一員としてプロジェクトに携わり、2017年から3年間はCPRでCEOを務めた経験をもとに、こう語る。 
「日本とシンガポールは時差が1時間しかなく、時間を気にせずコミュニケーションを取れる点が大きなメリットでした。また、実際にシンガポールで活動してみて感じたのは、人材の優秀さです。この分野の開発では、研究を遂行できる博士号を持った人材をどれだけ確保できるかが重要です。日本にも優れた人材は多くいますが、当時、中外製薬の研究職の99%が日本人という状況。グローバルな研究を進めるうえで多様性を取り入れることは不可欠で、その点、多様なバックグラウンドを持つ人材が集まるシンガポールは理想的な環境でした」  

 井川氏はさらに、シンガポールの人材の印象について話す。 

「CPRのスタッフは現場で意思決定を行うため、物事がスピーディーに進みます。日本に比べて組織が小さいことが影響しているのか、推進力があると感じます。また、現地のスタッフと一緒に働くなかで、同じアジア人としての親近感を覚え、非常に仕事がしやすいと思いました」 
 

産学連携とディスカッションが活発なエコシステム 

CPR設立後しばらく経つと、シンガポールにおける中外製薬やCPRの認知度は上がり、それとともに外部とのコラボレーションの機会も増えていった。 

その一例が、2015年から政府傘下のシンガポール科学技術研究庁(A*STAR)と共同で取り組んでいる​​デング熱治療薬の開発だ。主に蚊を媒介とする感染症であるデング熱は、気候変動などの影響で世界で急増しているが、現在治療薬が存在せず、その開発が待たれている。 
「シンガポールには、政府、大学、企業が協力してイノベーションを推進する環境が整備されています。アカデミア、つまり大学や研究機関の先生方も産学連携に前向きで、共同研究がしやすい環境です。CPRの立ち上げの際には研究がスムーズに進むよう、シンガポール国立大学(NUS)やA*STARの研究者をご紹介いただくなど、シンガポール経済開発庁(EDB)から多方面にわたるサポートを受けました。人材採用に関する支援などについてはいまでも続いています」(井川氏) 

病気の原因を探る基礎研究を行うのがアカデミア、その成果をもとに薬を開発するのが製薬会社の基本的な役割であるため、製薬会社にとってアカデミアとの連携は欠かせないものなのだ。 

さらに井川氏は、シンガポールのサイエンスエコシステムをこう評価する。 
「サイエンスのディスカッションは対面で行うことが重要ですが、その点、シンガポールは街がコンパクトなので、相手にすぐに会いに行けるという利点があります。また、CPRの施設がある『​​バイオポリス』という場所には大手医薬品会社や、共同研究をしているA*STARも入っています」 

バイオポリスは、3​5​万平方​メートル​を超える広大な敷地に14棟が建つバイオメディカル分野の研究開発地区だ。アボット、ボストン・サイエンティフィック、サーモフィッシャーなど医療関係企業を中心に、90を超えるグローバル企業や研究機関が入っている。
 

海外創薬研究拠点としてさらにオープンイノベーションを推進 

当初は20〜30人だったCPRの従業員も、現在では154人に増え、国籍は11に及ぶ。人的資材が充実している背景には、人事制度改革がある。博士号取得者のみが対象だった「Scientist」の肩書について、CPRでは人事評価制度が変更され、功績さえ認められれば肩書の授与が行われるようになった。この影響もあり、離職率を抑えられているのである。 

さらに、​希少疾患治療薬​の開発成功以降、単独で技術開発からプロジェクトを立ち上げることにも挑戦し、新しいタイプの​癌治療薬​は既に臨床試験に入っている。 

5年間の​​時限つきでスタートしたCPRだったが、​そうした数々​の成果が認められ、2024年には期限を撤廃することが決定。恒久的な海外創薬研究拠点として再出発を切ることとなった。 
「中外は2030年までに研究開発から得られる成果を現在の2倍に増やすことを目指しています。そのためにも、今後はシンガポールのアカデミアの中でより存在感を示し、優秀な研究者とのコラボレーションを増やしたいと考えています。これまでもコラボを実施してきましたが、相手からの誘いで始まることが多かったため、今後はこちらから積極的に働きかけ、オープンイノベーションを進めていきたいです」 

井川氏は自社の目標をそのように語ったうえで、こう呼びかけた。 
「シンガポールには創薬を手がける製薬会社はまだ少ない状況です。多くの製薬会社がシンガポールに進出し、エコシステムの中でプレーヤーが増えれば増えるほど、業界全体が発展していくと思います。シンガポールのライフサイエンス分野をさらに盛り上げていくためにも、製薬会社の研究所が増えることを願っています」 
 

*1スイスフラン= 約170円(2024年12月1日時点) 

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